昭和48年3月31日 朝の御理解
道教乃大綱 「一、信心して霊験のなき時は是ぞ不思議なる事ぞ。」
例えば願いを立てます。又どうでも一つここはおかげを受けなければならんと云う時があります。そういう時におかげがはかばかしくない、おかげにならない。そういう時にこれはまだ修行不足だと、まだ一心が足りんのだと云う風に色々工夫をしてみなければいけません。もうおかげは絶対のものと仰るのですから。
例えば五と五を足せば十になると云う程に絶対のものなんです。神様はおかげをやりとうてたまらんでおられる。私共はおかげを頂きとうてたまらん。そのたまらん者同志がこうやって相対するのですからおかげにならない筈が無い。こう叩けば音が出らない筈が無い。
ところがいくら叩いても叩いても音が出ないとするならね、まあだここ迄届いてない証拠です。だからまだ一心が足らんとか、修行が足りないと云う事になってくるし、同時にこれは改まらなければいけないな、ここに両方からの音の出る中に支障がある。邪魔になるもんが有る。何かがここに挟まっておる。だからこれを取り除かせて頂くと云う事を、まあ改まると云う風に頂いてもいいでしょう。成程こげな事じゃおかげ頂くめえと云う心に本気で取り組んで、その心を取り除かせて頂く、改まらせて頂くことに依って本当にこう打てば響く様なおかげになってくる。
信心して霊験なき時は是ぞ不思議なる事ですから、繰り返し繰り返しこんな事に失敗しよったんでは、それはおかげ頂くまいと、そこに不思議なる事ぞとやはり思わなきゃいけん。これはおかげは受けられんのが不思議だと。
今日私はそういう色々有りましょう、おかげを受けられんのは不思議だと云う。けれども私はお礼不足、お礼が足りない。
昨日佐賀の方からお願いに見えた方がある。私は佐賀の方とは知らなかった。或教会で熱心に信心しておられて、まあここでおかげが受けられると、御比礼が立っておるからと云うので参ってきた方がある。
お取次をさせて頂きよりましたら、「佐賀」と云う字を頂いた。だから、ははあこの人は佐賀から参って来たバイなあと思うたらやっぱり佐賀からだった。
そしてその佐賀と云うのがね、佐がえらい大きゅう書いちゃる。ははこの人は仲々合楽的な方バイなあと思うた。ところがその賀と云う字はもう小さく小さく頂いた。「佐賀」と
〇〇教会で熱心に幹部の御用をしておられる様である。だから今こんなお知らせを頂いたですよと申しましたら、いや実は私は佐賀から参って来ましたとこう言われる。実はどこどこでこういう御用も永年させて貰ってるけれども、この事ばっかりはどうしてもおかげにならんと云う事がある。まあこちらにお取次を頂いておかげを頂きたいとこう云うのである。
信心をさせて頂いて永い事になる。佐賀の佐の字は大きく頂いたけれども、賀と云う字が小さい。喜びが足りない喜びが小さい。喜びが小さいと云う事はお礼が小さい、お礼が足りない。そのところをこの佐と云う字にふさわしい、賀と云う字を頂く。だから結局それはどういう事かと云うとお礼不足がおかげにならんことになっておるようだからしっかりお礼申させて貰いなさいよと云うて、
だからお礼ちゃどげなお礼させて貰うたならよかろうかと云う様な顔をしておられましたから、お礼について色々お話させて頂いた。 これは福岡の三代吉木辰次郎先生、もう医者もいよいよ難しかろうと、もう周囲の方達も今度は助かりきりなさるまいと云うごたる大病をなさった時があった。もうそれこそ願うと云う事も教会挙げて一生懸命にみんなが願われたけれども、はかばかしくない。そこで寝んでおられる吉木辰次郎先生がふっと心に感じられることがあった。 それで奥さんに言われてから自分の持っている着物という着物、金にめぼしいものが有るならその全部、それから郵便局に自分の名前で入っておる預金通帳は全部出された。物は全部金に替えられた。そして親教会と御本部にお礼の、もうお願いと云う事じゃなかった。今迄おかげを頂いてきた事のお礼のお届けに参られた。もうそれから瞬く間におかげを受けられたと云う話を・・・・
大底はお礼は云うておる様であるけれども、お礼不足が、云うならば云うならこんなにみんなが教会挙げて願いよるとにどうしておかげ頂けんじゃろうかと云う、それこそ不思議なることぞである。
まあだ若い時の吉木先生ですからね、この若さでしかもまだ後を継がれる今の先生なんか小さいお子さんの時なのですから、今例えば福岡の教会に教会長が亡くなられると云う事はどんなに考えても、どうでもここはおかげを頂かなければならない時だと云うので、様々な信心をなさったろうけれども、最後のその、云うなら決め手になったのは自分の持っておる自分の物と名のつく一切をお金に替えたりお金を引き出したりしてお礼を申し上げられた。
だからそんならお礼と云うのは、物やら金やらではない。それもある。そういう話をさせて頂いた。今日はもう本当に合楽までお参りさせて頂いてよかったと云うて帰られましたが、後はどういう事になって参りますかわかりませんけれども、。
私は今日御神訓のここを頂いて霊験のない時は是ぞ不思議なる事ぞと云う。いつかおかげになるじゃろう、これはどうでもおかげを頂かねばならないと云う事はね、やはりこれは不思議なことじゃとそこに思わにゃいかん。
おかげを頂くことも不思議ならです、おかげを受けないことも不思議なんだ。
私は今日はね、みなさんにこのお礼の足りないところをです、ひとつ自分の周囲にあそこもお礼を申し上げにゃん、ここもお礼を申し上げねばならんところをひとつ今日一日はそこに極めて頂きたい。それはああたが持っとるもんを売ってしもうてからお供えしなさいと云う事ではない。
又の御理解に「信心する者は木の切株に腰を下ろしてやすんでも立つ時には礼を言う心持ちになれよ」とこれなんです。
このお礼を言う心持ちと云うのが大事なんです。そのお礼を言う心持ちがないからおかげにならん。いわゆるお礼不足である。
朝目が覚めたなら、本当に今日もお生かしのおかげを頂いて居ったことをお礼も申し上げる。布団にも枕にもお礼を言う。洗面所でコックをひねれば水がジャブジャブ出る。本当に有難うしてこたえん、お礼申し上げる。
自動車に乗るときだけは、どうぞ事故のないようにと思うけれども、降りたときにはもう忘れとる。降りたときには無事ここ迄着かせて頂いた、御用させて貰うて有難い。
お百姓さんが鍬を使われ、鎌を使われる。いわゆる使い終られたらお礼を申し上げる。きれいに拭き上げといて今日もおかげでと鎌にも鍬にもお礼を言う。
私は一日をです、このお礼を言う心持ちで過ごさせて頂いたらもう、云うなら大底なおかげは頂かれると思うですね。先ずはおかげ受けられると思うですね。
それを段々心からお礼が申し上げられるようになる。いよいよおかげを頂く。おかげを頂いても頂いても頂き足らんごたる気持ちでおるような心には、それこそ不思議な位におかげにならないと云うことになる。
もうひとつね、こげん簡単なことはないのですから忘れんごと、今日はそのいっさいのものに、まあ一切の事柄にもお礼を言わにゃんのだけれども、今日はもう一切の物にね、自分が使わせて頂いて居る一切の物にお礼を云う気持ちになる。
木の切株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ちになれよと仰る。下駄にも座布団にも立つ時には礼を言うその心持ちがね、神の気感に叶うのです。神の気感に叶う、そこからです、私は佐賀の賀じゃないけれども、喜びが段々大きくなって来る。
今日は霊験のない時は是ぞ不思議なことぞと仰る。だから先ず一つ不思議を感じなければいけない。例えばおかげを頂き足らんごたる思いです。
そんならそれがどうしてこがしこ参りよるとに、おかげ頂かんとじゃろうかと云うのじゃなくて、お礼が足りんのだ、お礼不足だと思わせて頂いて本気でひとつお礼を申し上げる。
私は善導寺の原さんにいつか申し上げた事がある。洋服屋さんですからミシンを使う時にもミシンを下りた時にもミシンにお礼を言いなさらにゃ、とも角ここんところを手間暇かかる事じゃない、心持ちじゃから拍手を打って天津祝詞上げにゃんと云うことじゃなか。只今から使わせて頂きます。おかげできれいに出来上がりましたと、又はミシンを踏み踏み有難いことじゃなとお礼を申し上げる心、いわゆるお礼を言う心持ちこそ和賀心につながるんだと思います。
腹けえちから有難うございましたと言う者はおらん。有難うございますと云うその心持ちがそのまま和賀心につながるから不思議におかげ頂けなかった事がおかげになると云う、おかげが表れて来ると思うのです。
もう本当に一切のものに今日はひとつお礼を言う心。それは私共がおかげが現れんのをどうしてじゃろうかと、これはまあだお参りが足りんとじゃろうか、お供えが足りんとじゃろうか。これだけ一心にお供えもしよるし、お参りもしよるけれどもと、だからそれでもおかげが頂けんとならば、そこにひとつ不思議を感じさせて貰うて、成程お参りもさることながら、お供えもさることながらです、立つ時に礼を言う心持ちが無い事にハッと気付かせて頂くのです。今日は皆さんが・・・
ほんなこと、ここに上がって来るときに下駄にも礼を言い忘れとった。自動車にも言い忘れとった。お水で手を洗わせて頂く時も有難うございますと言わじゃった。と、今日はそういうです、日頃お粗末になってるところをです、今日はもうフルに有難うございますと云うお礼を申し上げる心持ちにひとつ本気でならせて貰うて、成程この有難うございますとお礼を言う心こそ和賀心につながるんだなあ、和賀心におかげがあると云うおかげを頂かせて貰う体験を今日は頂いて貰いたい。ここんところにひとつ今日は絞ってお礼を言う気持ちを忘れん様にして頂きたいと思います。 どうぞ。